《イグニ視点》
「俺はもう出ていきます」
「止めないでください。迷惑なんですよ。貴方なんて大嫌いです」
冷たい目と声でそう言い放ち、初めて目が合ったあの日と同じ旅装束の姿で、カナデは行ってしまう。
引き止めたい。行かないでほしい。呼び止めたいのに声が出ない。抱きしめたいのに体が動かない。
そうしているうちに、カナデの姿はどんどん遠くなっていく。嫌だ、戻ってきてくれ。俺をおいて行かないでくれ。
やっと君に出会えたのに、何よりも大切にすると誓ったのに、どうして、なんで嫌われたんだ。
何がカナデを怒らせてしまったのか、どうしても分からない。
大切にしてきたつもりでも、それは俺の独り善がりでしかなかったのか? カナデにとっては迷惑だったのか?
嫌なところがあるのなら直すから、君の気持ちを理解できるようもっと努力するから、お願いだ、戻ってきてくれ。
カナデが居なくなるなんて、耐えられない。魂が引きちぎられるかのように痛い。
カナデ、頼む、行かないでくれ。カナデ、俺の、俺だけの……。
「……!?」
俺は突然目を覚ました。
ここは自室のベッドの上だ……窓の外はまだ暗い。
じっとりと、嫌な汗が流れている。頭も体も、ずしりと重い。
だが……今のは、夢だったのか。そうだ、夢だったんだ。
カナデは出ていったりしていない、俺の宮に居るはずだ。
……居る、よな?
急に不安になり、カナデが使っている部屋へと足を向ける。
物音をたてぬようにそっと扉を開け、恐る恐るベッドに近づくと、ふわりと甘いカナデの香りがした。
そこにはシーツと毛布にくるまりながら、幸せそうにすやすやと寝息をたてている、愛しいカナデの姿があった。
その光景に俺は心底安心し、同時にドッと疲れが出た。
なぜあんな夢を見てしまったのだろう。
現実のカナデは、こうして俺の宮に居てくれるし、あんな冷たい目をした事も、物言いをした事も無いというのに。
「カナデ……」
カナデを起こさないようにそっと髪に触れ、本当にこれが現実なのだと実感する。
しかし……あの夢が現実に起こりうる可能性は、ゼロではない。
この愛しくも可愛らしい最愛の番であるカナデに、敵を見るかのような眼差しをおくられてしまうなんて。
……これ以上長居したら、本当に起こしてしまうかもしれないな。
後ろ髪をひかれつつも、物音をたてぬようにカナデの部屋を出た。
そのまま自室に戻り、タオルで汗を拭いたが、心の中のモヤモヤまでは拭いきれない。
この状態で寝つける気もしなかったが、翌日に支障が出てはいけないと、ベッドに潜り込む。
しかし案の定、まったく眠れなくなってしまい、そのまま朝を迎えてしまった。
重い体を引きずりながら朝食へ向かうと、いつもの様子のカナデがいる。
昨晩の事を悟られぬようにと、なんとか笑顔を作り他愛ない話をして、朝食を終えた。
そしてカナデと離れ執務室に入った途端、一気に絶望が押し寄せてくる。
そんな俺に、完全に呆れているロドだが、さりげなく俺の仕事を減らしてくれている……ロドの無言の気遣いには、本当に頭が上がらないものだ。
それでも昼に持ち越す事になってしまい、昼食の時にカナデとアルバにも不調を気づかれたのか、なんだか気を遣わせてしまった。
カナデには、筆が乗らないだけだから、気にせずプールに行っておいで、とは言っておいたが……。
本心を言えば、無茶苦茶ものすごく、がっつり気にしてほしい……が、さすがにそれは自分でも、過剰すぎる感情だと分かっている。
結果、夕食までには終わらせられたが、今日の分はほとんどロドがやってくれたようなものだ。
さすがに、俺の最終確認とサインが必要なものまで任せるわけにはいかなかったから、こんな時間になってしまったわけだが。
悪夢は見るし夕立まで鳴りだすし、今日は散々だ、と萎えながら食堂に向かうと、何故かカナデがそわそわしながら待っていた。
不思議に思いながら席に着いたところで、今日の夕食が運ばれてくる……前菜として、小さなコーンパンとミネストローネが目の前に置かれた。
何故今日に限って野菜が多いんだ、と思っていたら、シェフが俺に話しかけてきた。
「イグニ様、こちらの料理のトウモロコシとトマトは、カナデ様の菜園で収穫されたものを使わせて頂いております」
そういえば、カナデは花だけでなく野菜も育てていたな。
実りの時期を迎えたから、収穫されたものがこうして食卓に出されたという事か。
俺はコーンパンを手に取り、少し様子を見てから、一口かじる。
「……美味い」
「! 本当ですか?」
「ああ、きちんとした甘みのあるトウモロコシだ」
「よかった、初めての収穫だったから、美味しく出来てるか不安だったんです」
カナデは安心したように笑った。
ミネストローネの方も食べてみたが、こちらもトマトの味がしっかりと感じられるのに、野菜が苦手な俺でも食べやすいよう、まろやかに調理されている。
前菜を食べる俺を見ながら、カナデはニコニコと無邪気に笑っていた……やばい、可愛すぎる。
その後に出てきたチキンソテーもトマトソースが使われており、今日のメニューはカナデの育てた野菜が引きたつように工夫されているようだ。
自分の番が大事に育てた作物を食べるなんて、兄弟たちにも経験が無いんじゃないか。
そう思うと特別感を感じて、今までの事がどうでもよくなるくらい嬉しくなる……うん、自分が単純だという自覚もある。
しかし、カナデはこうして傍に居て笑ってくれているし、部下たちも皆、俺を気遣ってくれるじゃないか。
きっと俺の中にあった、漠然とした不安が悪夢を呼び寄せてしまったんだろう。
愛しい番に信頼できる部下たち、親身になってくれる兄弟とその番たちも居る……現実の俺はこんなに恵まれているというのに、何を恐れていたのだろう。
とたんに心が軽くなった気がして、上機嫌で二つ目のコーンパンを口に運んだ。今夜はいい夢が見れそうだ。